
new!!2022年の演劇鑑賞は こちら↑↑
演劇を見た感想
作:唐十郎
演出:金守珍
出演:宮沢りえ、磯村勇斗、愛希れいか、岡田義徳、 大鶴美仁音、渡会久美子、広島 光、島本和人、八代定治、 宮原奨伍、板倉武志、奈良原大泰、キンタカオ、趙 博、 石井愃一、金 守珍、六平直政、風間杜夫
コロナ禍がほぼ明けて、ようやく劇を観に行けるようになった。
最初に選んだのがこれ、唐十郎作品の『泥人魚』だ。
選んだ動機が「ナマの宮沢りえ、磯村勇斗を視たい」という単純なものなので、すっかり油断していたが、とんでもなく難解な劇だった。
しかしこの芝居、
本作は2003年4月『劇団 唐組』により初演となり、五十五回読売文学賞 戯曲・シナリオ賞、第三十八回紀伊國屋演劇賞(個人賞)、第七回鶴屋南北戯曲賞、および第十一回読売演劇大賞 優秀演出家賞を受賞した傑作戯曲として知られている。
というのだから、演劇関係者にとっても重要な作品なのかもしれない。
諫早湾干拓事業に材を取ったという『泥人魚』。2003年の初演時頃は、「干拓事業の抜本的な見直し」や「28日間の短期間に堤防を開門」するなど、時事問題としてもホットだった。調べると今も開門を求めたり却下したりと事態が収拾されているわけではない、とはいえ、どうせ今の時代にやるなら、環境問題にもっとダイレクトにつながった他の材でやってくれても良かったのに。
と、思ってしまったのは、磯村演じる「蛍一」のセリフが長くて長くて、よくそれだけのセリフ覚えられたなと感心してしまったからなのだ。どうせ長いセリフなら、もっと今日的な方がいいじゃないか、と。
が、そんなこと言ってもしょうがない。そういう次元の事じゃないんだろう。仕方ないから、後日、『泥人魚』の原作を読んでみた。活字でシナリオを読むと、舞台よりはずっとスッキリと分かりやすい。けど、風間杜夫、72歳で「アングラ」に挑戦に書いてあるけど、今回の泥人魚も唐十郎氏自身が演出に関わって、しかも「泣いている」そうだ。つまり、これで(分かりにくくて。すっきりしてなくて)いいのだ。
原作に加え『魔都の群袋』という初期エッセイ集を読んだ。「唐十郎」(からじゅうろう)の魅力がどこにあるのかちょっと分かってきた。度を越えた人間関係の濃密さと距離の近さだ。言って見ればソーシャルディスタンスの真逆。コロナ時代の反逆児。うわべだけの人間関係なんかぶち壊せ、という気迫。とことんお前に食らいついてやる、という嬉しいような迷惑なような情念。
この芝居は、上品すぎる「bunkamuraシアターコクーン」で演るのは違うんじゃないか、という違和感が勝ってしまった自分であるが、これもまたひとつの挑戦なんだろうな。
◇イチから分かる諫早湾干拓問題 21日から差し戻し審(日経) ←ビジュアル的にも分かりやすい。劇に出てきた泥水も「これか」と思った
◇【みんなの口コミレビュー】舞台『泥人魚』の感想評判評価 ←熱い感想が多い。見習いたい
2013年1月22日記
《劇団☆新感線》の人気舞台を撮影したゲキ×シネをみた
2011年8月7日-8月24日:梅田芸術劇場メインホール / 2011年9月5日-10月10日:青山劇場 / 作:中島かずき / 演出:いのうえひでのり
時は戦国時代、今まさに関東を征服に豊臣20万の軍勢が押し寄せんとしているところ。
物語の主要人物は三人。織田信長の若き家臣だった三人で、捨之介、らんべえ、天魔王だ。 三人は、殿・信長の天下統一の夢と野望をともに分かち合う仲だったが、殿が明智に暗殺されて以来別れ別れになっていた。それでも三人は三人とも、殿亡き後も殿の幻影に囚われながら生きている。例えばらんべえは、もとは信長の小姓であるが今は関東随一の色里「無界の里」をしきっている。天魔王は、関東髑髏党なる城を築き、関東制覇から天下統一を血生臭く目指す、という意味では一見信長の野望をそのまま引き継いでいた。
信長にとっての「天下統一」といえば朝廷(天)を倒してのそれであるのは、常識だろう。 wikipediaで「本能寺の変」を見ると、煮え切らないことばかり書いてあるが、消極的にではあるが一応その説も載っている。 本作をあえて図式化して言うなら、天魔王は信長の夢の悪夢的実現形であり、どこまでも禍々しく破滅的に美しい。 一方らんべえは天下取りや野望、もしくは社会的に頑張ろう(「無界の里」の運営とか)と思ってはいたが、結局はその業のままひたすら信長への愛に殉じ、というとキレイだが、耽溺するようにDEEPな世界に堕ちていく萌え萌えーーな美形。もう一人捨之介は信長の夢を否定も肯定もしない。彼の決めセリフは「浮世の義理も、昔の縁(えにし)も、三途の川に捨之介だ!」というもので、それをすね毛を剃ったきれいな両足をむき出しにしてふんどしが見えちゃうよーというきわどいポーズで歌舞伎っぽく決める。捨之介は揺れ迷いながらも、ひょうきん、機転、優れた武術をもって---それゆえ愛と友情に恵まれながら---飄々としたスタイルで生き延びていく…。芝居の最後の〆め方が良くて、自然で無理がなく、今までの流れをくみつつ捨之介らしさを生かした終わり方になっていてこの上なく気持ちのいい後味。彼がこののち捨之介であることを捨てるときに、どうか変な捨て方をしませんように、と思う。 そんなこんなで解りやすく図式化してしまったが、信長をいいとも悪いとも解釈しているような単純な芝居ではないので、自分的にはやや物足りなかったが、単純だとつまらないので良かったと思う。
見所はたくさんあるが、一番に挙げないといけないのはどう考えても、熱い殺陣だ。 どんだけ練習したんだと思わす、もんのすごい殺陣ワザの連続。これは男優ばかりではなく、無界の里の一番人気の極楽太夫もそう。映画やドラマなら編集できるだろうけど、舞台であれをやるってすごいよね。 色里ということもあり女性もたくさん出てくる。中でも沙霧は、少女のような少年のようなひたむきさで、ひたすら一生懸命だ。お色気部門を小池栄子がやっているので(本当にキレイで色っぽい!!)、沙霧は中性的かつ実は頭脳労働者だったあたりがびっくりだ。(もう少し女寄りの中性でも良かった気はしたが…) Movie walkerのレビュウ欄を見ると、本来この劇団はもっと「笑い」を盛り込んでいるらしく、それに比して本作は真面目で暗くて固い、みたいな評をしている人がいた。が、わたしは十分に笑えたし、面白かった。
公演:2019年2月24日〜2019年3月17日
会場:東京芸術劇場 プレイハウス
作・演出:岩井秀人
音楽:前野健太
出演:松尾スズキ 松たか子 瑛太 平田敦子 菅原永二 平原テツ 古川琴音
演奏:前野健太と世界は一人
(Vo,Gt.前野健太、B.種石幸也、Pf.佐山こうた、Drs.小宮山純平)
今まで何本か舞台劇の感想を書いたけど、この舞台はかなり違う感触をもった。たとえば流山ブルーバードでは、舞台と客との呼吸がピタリと合う感じがあった。世界は一人はそうではない。「どうしてここで左隣の人、笑うんだろう?」とか「え、すごい可笑しいのに何でピクリともしない?右隣の人」と、感じる瞬間がたびたびあった。ぜんぜん他の客と息が合わない。
他にも変な特徴がたくさんある。一人の役者が担う役が一つじゃない(いや、明瞭にはわからなかったけど、そうだった)。二つとか、三つの、他の人物に変移する。場合によってはいきなりナレーションぽいことまでする。年齢にも縛りがない。なんせ、松尾スズキと瑛太と松たか子が同級生だ。さらには、生まれてきた子がいきなし小太りのおばちゃんだ。
もしわたしが劇を作れたとしても、ぜったいにわたしの頭の中から出てきそうもない要素が続く。言ってみれば、「他者感覚」が半端ない。これは、むしろ珍しいことだと途中から気づいた。同じ日本に暮らして同じ空気を吸っていたら、どうしても常識的に共有するものが出来てしまうからだ。
といっても、全然共通点がないわけでもない。田辺(という名前だと思った。松たか子)とゴロウ(松尾スズキ)が夫婦喧嘩をする。松たか子の声はとても美しい。この劇、そうとは知らなかったのだけど実はミュージカル要素がふんだんに盛り込まれている。なので役者が歌を歌う。松たか子の歌声はすごく良い。
その美しい声で夫相手に憎悪の声を上げるのだ。「そう、みんなあたしのせいだって言うのね! みんなあたしが悪いのね!」等々。
一体、世の中の夫婦のどれくらいの割合が夫婦喧嘩をするのか不明だけれど、ひとたび始まれば、お互いが子ども時代へと逆行するんだと思う。子ども時代はまだ夫婦でも何でもないし、子ども時代に起きたことにお互い責任があるわけでもないのに、子どもへと変移する。松たか子の罵り声は、大人の女の声であり、子どもの声だ。
自死や洗脳やせいしんの病や産業廃棄物の汚泥など、つらくてどす黒い波が 寄せては返す。そうそう、パイプカットって、いつやったんだ? いやもうそれ確認しないと、と思ったけど、そんなこと、息子が父に聞けるはずもなくて。悲しくて可笑しくて。
毒性の高い汚泥がどこに廃棄されたのか? という疑問がリフレインされる。こっちはすっかり忘れているのだけど、繰り返し出てくる。結論としては、砂浜に捨てられていたらしい。砂浜って、みんなが遊ぶ場所じゃない。ひどい。不安が全身に広がる。
「誰もあたしを求めてない」と最後の方で田辺が言っていて胸にささった。その言葉はどこで言うべきだったのか、その場所でもあるし、子どもの頃でもあるし、客の胸の中かもしれない。言うべき言葉とか人物の要素が分解されて、あちこちに偏在している。少女(例の小太りのおばちゃんと同一人物)が何か言うと、それが救いなのかなと思った(依童や座敷童の原理)。けれど、少女の言ったことは、あー…… と思うことだった。嘘くさい救いではなかった。それに、子どもは依童ではない。あくまでも大人が考えないといけないことだから。
わたしが考えるとすぐに教訓引き出し型になってしまう。そうすると、考えがまとまるような気がするのだ。実際は教訓などはない。ただかみしめよう、絶望と不安とさみしさと、どこからか不思議と湧き上がってくる楽しさを。
作・演出:赤堀雅秋
出演:賀来賢人 / 太賀 / 柄本時生 / 若葉竜也 / 小野ゆり子 / 宮下今日子 / 駒木根隆介 / 赤堀雅秋 / 平田敦子 / 皆川猿時
わたしは二十歳くらいの時、千葉県流山市に住んでいた。
「演劇って面白いな」と目覚めたことは目覚めたが『流山ブルーバード』を観た理由はそれだけなので、登場する役者や演出家への造詣はナッシングである。
10人の登場人物が流山を舞台に、いろんな事を言ったりやったりするこの芝居、何より引き込まれたのは、彼、彼女らのセリフやアクションのタイミングがぴたりと客の呼吸と一致していることじゃないだろうか。
たとえば一番の山場ともいえる、ナイフを持った足立健(太賀)がスナックで感情を爆発させる場面。爆発させた理由は、親友の高橋満(賀来賢人)と妻の美咲(小野ゆり子)が浮気していたからであるが、そういう状況を経験したことのない、この場に居合わせた大半の観客(観客の6割以上は女性と見受けられた)にとって、その心理は想像するほかはない。そのため足立の動きは予測のつかない不気味なものであったが、方や対峙する高橋の方なら幾分想像がつく。責められる、経験ならばあるからだ(まぁ全員とは言わないが少なくともわたしは)。
責められ身が固くなる。返事もできない。包丁を振り回しているがそれを止めることもできない。強要された乾杯には嫌だが応じるしかない。質問されれば無理にでも返事をする。そんな一個一個の反応が、見ているこちらと少しもずれていない。
こういった事は他の場面でもそうだ。退屈だから始めてしまった風俗の出張先で高橋国男(皆川猿時)に会った時の、爪切りどこだ発言へのリアクションも、自分ならこうだろうな、という反応の域にある。対する国男の、「セックスしたい!!」も、ここでそう力説しないとしないまま終わりそうなスリルを回避できていて、自分でもそうするだろうという、性別を超えた説得力があった。
劇の全体が、そんな風に、自分の反応→自分の暮らし→自分の精神と向き合えるようなところがある。劇の最後のセリフが胸に響き続ける中、役者達が舞台に並んでお辞儀をした。劇が終わったのだ。その時に大きな拍手が沸き起こった。拍手はいつまでも続いていた。その拍手の強さも長さも、ぴたりと自分の感覚と一致していた。
観客の90%は、流山に住んだことも、ラブホに松戸を選んだことも、家が魚屋で隣人が大きな声で輪廻について話す人だったことも、ダイニングキッチンの隣が便所ということも、カラオケで感動しない「粉雪」と湘南の風を歌う友達がいることも、さらには喫煙者とも思えないが、この芝居が投げたボールは客の胸に確実に届いていた。
その感覚の中で帰路につけたことが、とても豊かな気持ちにさせた。
東京以外では、島根、大阪、広島、静岡でも上演するようだ。果たして、流山からも江古田(これもちょっとしたスポット。チェーホフの三人姉妹のセリフとか)からも、うんと遠いここらの土地での反応はどうなんだろう?
作・演出:岩松了
出演:大森南朋 / 麻生久美子 / 三浦貴大 / 森優作 / 池津祥子 / 岩松了
舞台の演劇をみに行くの、これで4回目くらいかな。
『市ヶ尾の坂』は、前回行った劇場で配られていたチラシで知った。
この劇はなんというか、得意になって感想を言うタイプの劇ではなくて、しんみりした感覚を残す。三人の兄弟がたあいのないセリフでやたら盛り上がっていたので、不思議な兄弟だなと思いながらみたのだけど、最後のシーンで、あああっと思わせた。この兄弟、「それ」が見たさに、あんなに盛り上がっていたのか? この兄弟、実は胸に秘めたる悲しみと思慕をもって馬鹿馬鹿しいほどにじゃれあっていた!?
劇の紹介ページを見ると、麻生久美子さんは「美貌の人妻」設定だったようだ。が、わたしの席は遠かったため美貌とかはよくわからなかった。だんだん、映画やテレビドラマとの違いがわかってきたのだけど、芝居の場合は、自分の席から見えたもの聞こえたものがすべてだ。
同じ演劇でも、近くで観た人と、後ろの方で観た人では感想が違ってくると思う。それでいいのである。観客と舞台の間に仲介者はいない。遠いなら、遠いなり。近いなら近いなりの鑑賞であり出会い。
遠くてもセリフはとてもはっきりと聞こえるから大丈夫だ。
作:前川知大 / 演出:長塚圭史
出演:藤原竜也 / 仲村トオル / 成海璃子
2017年、思い立って舞台というものを観ることにした。
職場の組合で劇団四季の『ライオンキング』や帝国劇場『レミゼラブル』は観たのだけど、それ以外で行くのは、初めてだ。
さて、どうなるのか。
舞台は、ラジオ番組の収録スタジオから始まる。
奥まったところに小さなセットがあり、役者二名が向き合って会話をしている。
一人は「仲村トオル」さんなのはすぐに分かった。「仲村トオルさんて意外と普通の人なんだなあ」と感心して見た。
のだけど、セリフが妙にギクシャクしている。自分が演劇を見たことないから下手に見えるのか、もともと演劇の演技とはこういう感じなのか分からないまま見ていた。
そうしたらなんと、ふたりは「ラジオのパーソナリティとゲスト」の演技をしている市民劇団員だったのである。
つまり、わざとギクシャクさせていた、のだろう。
舞台全体が明るくなると、劇団員や市長などの人々が総勢10人くらいあらわれた。
劇団員のある者は東京での活動歴があったり、ある者は地元から出たことのないなど、背景はさまざまだ。
ちなみに「プレイヤー」とは死者の言葉を再生(プレイ)する人。
劇中劇であるため、観ていると、意識が外へ向かったり内に入ったりと往来する。
当初、市民劇団が次回上演予定の芝居のリハーサルをしている、という形で「プレイヤー」は演じられていた。
その時は「プレイヤー」の演出家やプロデューサーが側にいて、演技を褒めたりアドバイスしていた。そのたび観客は「ああ、これは『プレイヤー』を演じている最中だ」と、思い出す、という案配。
あるいは「今は『プレイヤー』を演じているとこなんだよね」と、ワケが分からなくなった頭で隅っこの演出家やプロデューサーの姿を確認することになる。
劇中の「プレイヤー」に引き込まれては「現実(劇)」に戻され、「現実(劇)」に引き込まれてはまた「プレイヤー」に押し戻されと、行ったり来たりでだんだんこっちは気持ちの悪い酩酊状態になっていく。これ、下手にやると、というか上手にやり過ぎると、集団洗脳ができあがりそう。
終盤にさしかかると、頼みの綱の演出家とプロデューサーさえもが、「プレイヤー」の登場人物のようになっていくため、尚更だ。
このお芝居の宣伝文句に「サイコホラー」という言葉があったが、映画やドラマで見るホラーとは違って、空間を共有しているがゆえの怖さがあるのだ。
「ネットに上げる」というセリフで舞台は終わる。
「プレイヤー」(劇内での)の原作は、もともとは地元出身の作家○○が書いた。
○○は東京で孤独死した。
○○と同じ地方出身の女性プロデューサー▲▲(舞台上でずっと劇を見守り続けていた)が○○のノートをみつけた。
小さく報道された○○の死。新聞では「無職」となっていた。それが▲▲は悔しくて「プレイヤー」を地元の市民会館で上演することを決意した。
しかし○○の書いた「プレイヤー」は未完だった。そのため▲▲は役者達の生きる(=演じる)行為から発生するものに賭けた。
その賭けに勝ったのか負けたのか?
それは分からないが、未完の何かの続きをえんえんと演じ続けているのは、ワレワレみながそうだ、と思い至った。
演出:五戸真理枝
出演:立川三貴 / 廣田高志 / 高橋紀恵 / 瀧内公美 / 泉関奈津子 / 堀文明 / 小豆畑雅一 / 伊原農 / 鈴木亜希子 / 谷山知宏 / 采澤靖起 / 長本批呂士 / クリスタル真希 / 今井聡 / 永田涼 / 福本鴻介 / 原金太郎 / 山野史人
ゴーリキーの戯曲『どん底』、書かれたのは1902年冬〜1903年の春。
時期的にいって、社会主義国家が生まれる直前。
当方、1980年に高校を卒業。ソ連の消滅は1991年12月。
公教育のすべてを冷戦時代に受けているのに、「ゴーリキー」をまったく読んだことがなかった。
むろん、演劇も見たことない。
おそらく上演回数は相当に多いと思われる。
演出によって、いくらでも暗い、陰気な舞台になりそう。
実際、1954(昭和29)年4月「芸術新潮」に
私の腑に落ちない点は、日本の「どん底」は、なぜこんなにじめじめしてゐて暗く、やりきれないほど「長い」かという一文が載ったらしい。(「岸田國士 『どん底』の演出」)
ゴーリキイが、この作品のなかで、しばしば、時は「新春」だといふことを見物に想ひ出させようとしてゐるのは、それと関係はないだらうか? 象徴とはさういふものではないか。強ひてイデオロギーの有無に拘泥しなくても、戯曲「どん底」は、長い北欧の冬からの眼醒めを主題とする希望と歓喜の歌が、この、辛うじて人間である人々の胸の奥でかすかに響いてゐるやうな気がする。ゴーリキイは、「どん底」の人々の誰よりもスラヴ的「楽天家」なのである。
ともあった。 「明るい」「春」「希望と歓喜」「楽天家」
そこまで言う演出家もいれば、ジメジメさせる演出家もいたってことだ。
さて今回の『どん底』、ジメジメして暗い、ということはなかった。どっちかというとサバサバしていた。
ちょっとした仕掛けがあって、劇中劇になっている。
まず出だし。会社員風の女性が嬉しそうに走ってきて服を着替える。
↑道路工事現場でよくみかける「バリケード」。これにOLスーツ服をかけ、巻きスカートとエプロンに着替え、ロシアの女将風に変身。そして、たたたと駆け上がって、演劇仲間達と集合。
「これから『どん底』やるぞー」と皆で盛り上がる。
ちなみにこの女性が扮するのはクワシニャーといって、中年の肉饅頭売りの、威勢のいい女性。
そんな感じで進行するから、鉄パイプや木パレットやコンテナで舞台が作ってある。
↑木パレット
新国立劇場の舞台美術の人なら、おちゃのこさいさいで、1900年のロシアの「木賃宿」作れるだろうに、工事現場の見慣れた物品を使っているのが味噌。
そして、皆で一生懸命「どん底」の演劇空間を作り上げていく。
その中での『どん底』をどう味わうか、どう受け止めるかと。
劇中劇とはいっても劇は劇なので、貧しいなあ、不幸なんだなあと、感じないわけにはいかなかった。
それに飛び交う罵声が本当に罵声で、つらいなあと。
アンナという女性が弱り切って横たわっていた。不幸だった。本人も「生まれてから死ぬまでずっと不幸だった」と直球を投げていた。
ルカという、この共同体の中では客人的立場のおじいさんがアンナの話を聞いて慰めていた。
ルカが、このフラットな関係の中で一番目立っているっちゃ目立っている。服装も日本の時代劇の着物を着込んできたりして。
今の時代って、ものすごく役に立つ言葉、メンタルに対して即効性のある言葉が喜ばれる。お悩み即解決みたいなやつとか。
ルカも、それに近い啓蒙的なポジティブな事を言う。のだけど、力強くはない。積極性がさほどない。断言的ではない。
なので、大きな影響力を持たないまま去って行く。ルカが何を言ったかというと「人はより良きもののために生きる」。
「より良きもの」がキーワード感あった。
ルカがいなくなるといかさま師サーチンがルカの口癖を真似るようになる。サーチンは威勢のいい男で、声がでかい。口も巧い。
であれこれ言ったあげく、橋桁みたいなコンクリートに大きく「人 間」と書く。 「人 間」と書きながら色々言っていたが、全体に嘘くさい。
そうこうしている間に
彼、彼女らの演じる『どん底』はクライマックスを迎える。
この時、「我々」「同志」としての連帯の歓びが沸き立つ。というか沸き立ちかける。沸き立ちかけて脱臼し、沸き立ちかけて頓挫し、沸き立ちかけて錯覚のようになる。
彼、彼女らは、「我々」「同志」としての連帯の歓びを頓挫させる、という演劇空間を成立させる。
という表現でよいのか、わからないが、今ふりかえって思うに、そんな感じなのだ。
それはちょっと寂しい感覚だった。そして、ホッともしていた。
それでも「人 間」という言葉がコンクリートに残った。
と。
劇が終わって新国立劇場を出ると、目の前に70歳近い男性が歩いていた。スーツとスニーカーの。
新国立劇場は初台駅と直結しているから、行き先は駅しかない。
この人は、この舞台に満足しただろうか?
この人も、くすぶるような寂しさを感じたのじゃないだろうか?
いやさ、それとも「元気」をもらったのだろうか?
まったく解らない。想像もつかない。
もしも話しをしたら、「あんなのゴーリキーじゃない」「あの頃の俺たちは、理想の社会主義国家を夢見ていたんだ」と言ったりするのだろうか?
いやいや、仮に思っていても、初対面相手に言うかどうか。
言わないだろうけど、聞いてみたかった。
ミハイル・イワーノヴィッチ・コストゥイリョフ 54歳、木賃宿の亭主。 ワシリーサ・カールポヴナ コストゥイリョフの女房、26歳。 ナターシャ ワシリーサの妹、20歳。 メドヴェージェフ ワシリーサとナターシャの叔父、巡査、50歳。 ワーシカ・ペーペル 泥棒、28歳。 クレーシチ・アンドレイ・ミートリイチ 錠前屋、40歳。 アンナ クレーシチの妻、30歳。 ナースチャ 売春婦、24歳。 クワシニャー 肉饅頭売りの女、40代かっこう。 ブブノーフ 帽子屋、45歳。 サーチン 40代ぐらい。 役者 サーチンとほぼ同年輩。 男爵 33歳。 ルカ 巡礼者、60歳。 アリョーシカ 靴屋、20歳。 クリヴォイ・ゾーブ 荷かつぎ人足。 だったん人 荷かつぎ人足。「だったん人」とはタタール人の意、 ロシアにおけるイスラム教徒のこと。 ほかに、名もなく台詞を持たない浮浪人数人。
場所:新国立劇場
演出:小川絵梨子
出演:成河 / 亀田佳明
この劇、傑作だと思う。
この1,2年の間は舞台劇ってだけで「ほおお」と感心して有り難がっていたところがあるのだけど。
この劇見て、生まれて初めて、笑いってものが、発狂を逃れるための装置としてあるのだと実感した。人は、狂ってしまわないために笑うんだと、理解した。
得がたい体験ができたと思う。
ただし、その分心臓にちょっと悪い。
メンタルに自信のない人にとっては警戒レベル3くらいある。
それくらい、血みどろ場面が自律神経とホメオスタシスを揺さぶる。
ヒドイ。
なんつっても、「タージマハル以上に美しい街を作ってしまわないように」と、タージマハルを作った職人やら土木工事人やら左官やらの手首を切り落としてしまう。本数にして4万本、人数にして2万人も。舞台後方で手首が山積みになっているのを見て、命じられるまま死んでいった特攻隊員の死体に似ていると思った(そういう記事を書いている最中だったこともあって)
特攻もそうだけれど、わたしもわたしの子ども達も手首を切られる2万人の側にいる。そう実感されてしかたないから、そのあとのセリフがぜんぜん頭に入らなかったのは困った。登場人物(ふたりしかいない)たちは、2万人もの手首を切ってしまったことの衝撃を忘れるために必死で妄想を膨らませ夢を語りファンタジーに逃げて、たくさんしゃべっていたけど、それが頭に入ってこない。
紋切り型で使いたくない言葉だけど「社会の格差」「格差社会」が描かれている。そうでないなら、建築士(天才とうたわれ、人格もすばらしい、名士の誉れ高い人物。名前失念)一人を殺すなり、手首を切ればすむことだ。職人が大勢いても優れたarchitectがいなければスゴい街はできない。architect一人がいくらすごくても職人や大工がいなくては出来上がらないとはいっても。だからこそarchitectは2万人と一緒にタージマハルの完成を祝いたいと言ったのだろう。
言うなれば雇用者と労働者の理想の形だ。どうやら代々世襲しているらしき皇帝陛下はその関係に嫉妬した、というのもありそうだ。 見る側としては、被害者的立場一辺倒で見れたわけではない。うまく立ち回って皇帝陛下の側に付けば、おいしい思いができるのだ。となれば必死になる気持もわかる。自分ならどうするか、バーブルのような形で頑張ってひたすら規則を守るのか、それともフマーユーンのように思い切った決起に踏み切るのか・・・ 自分にそんな勇気があるか・・・・
(158) Guards at the Taj - YouTube 各国で?上演された Guards at the Taj
Review: ‘Guards at the Taj,’ Two Ordinary Guys Ordered to Do the Unthinkable - The New York Times ニューヨークタイムズのレビュー。皇帝陛下とトランプ大統領を結びつけたラスト
Rajiv Joseph - Wikipedia この劇の原作者、ラジヴ・ジョセフのwikipedia(英語)
原案:村田沙耶香 松井周
脚本・演出:松井周
出演:金子岳憲 三村和敬 大鶴美仁音 日?啓介 能島瑞穂 王宏元 / 安蘭けい
かーなり難しかった。
冒頭から理解エネルギーを要する。
「レアゲノムの密猟者を捕まえないとダメじゃないか」「取り逃がすとは何事だ」と怒る三輪さん。(人名はうろおぼえなんで違うかも。以下同じ)
レアゲノムが何なのか? というのも、ちょっと理解しにくいのだけど、この世界、従来の性行為〜生殖〜出産 というプロセスが大幅に管理され、生殖テクノロジーでしか子孫を残さないらしき世界。従来の性行為は今では「ノラ交尾」と呼ばれ、ギャハハっと皆が笑ってしまう。 現在人間が行っている性行為〜生殖〜出産 も、時代が変わればそんな風に見える可能性は十分にあり、この異化効果には面白いものがあったことはあった。
ここまでだと「SF」という枠組になるところ、劇はそんな枠は拒否した。
さっきまで普通に話していた秀君が、衣装を着替え、国産み神話を説明し始めたのだ。
かなり奇妙奇天烈な国産み神話で、詳細は劇あるいは小説にあたって頂くとして、ある種、おおっ!! と思った。 本来の国産み神話は、イザナギとイザナミの2人がクルクルと柱を回って、先に女性が求婚したために蛭が生まれた。 仕切り直して男性が求婚したら日本列島が生まれた、というもの。(日本列島といっても、北海道や沖縄などは含まれていない)
日本の根強い男尊女卑のルーツはここにある。 いつまでたっても、夫婦別姓議論が深まらない理由の根源も。
日本の国産み神話を後生大事に語り継ぐくらいなら、こうやって、ぜんぜんデタラメでふざけたやつで上書きしてくれたら、そっちのが世のため人のためでイイネ!!と思ったのである。
しかし劇は、そういった問題意識の枠は拒否した。
あれもこれも拒否された感のある展開中、
ちょっと面白いと思ったのは、さりげなく色合いに凝っていたことだ。 登場人物みなが緑色の服を着ている。その一方、室外には真っ赤な紅葉が絨毯のように敷き詰められている。 この真っ赤な落ち葉にときどきスポットライトが当たって異様に綺麗。
何を隠そう、劇の女性登場人物の1人(名前失念)は、ノラ交尾で出産したらしく(???ここらへん、確信はもてないけど)娘が色覚異常なのである。やったー!! 嬉しい。
赤、緑ラインはその事のひっかけであり、同時に、日の丸の赤を意識している。と、思われる。
色覚異常が出てきたのは、遺伝、という昔ながらの宿命のわかりやすい構図となっているからだろう。そういえば先日「性同一性障害」の本を読んだのだが、びっくらした。
従来、女性の性染色体はXX 、男性はXYというのが常識だった。
ところが、性同一性障害ではXXY や、XXXYなどもある、という。
今まで、XX と、XY という組み合わせしかないと思っていたものが複雑多岐になってきたのだ。
劇中の国産み神話のコンビも、それに近いものがある。
この兄弟、神らしいのだけど、劇はどういう解釈も笑いも涙も拒否しているのでどうと説明はできないのだけど、ときどき「ドラマ」みたいに感情が爆発して「告白」していた。逆にこういう「人間的」な場面が妙に引き立ってドギマギだ。
ただ告白してどうなった、というものでもなく、だんだん劇に慣れてくると「理解しよう」という安易な営為を放棄することにほぼ成功していた自分である。
芸術とは人間を描くものだと思っていたが、人間じゃないものを見せてくれた、という感覚が残った。
なかなか希有な体験だ。